取り急ぎまして。

散らばる思考をためておく備忘録。

秋になったと思ったらもう梅雨である

 

 

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「秋になった。」という投稿をしてから

しばらく何も書いていなかったことに気づく。

もう梅雨ではないか。

 

あれから職場復帰して、結構忙しく仕事していた。

あんなに今の仕事の意味がわかんなくなった気がしていたのに、

やったらなんとかなるもんだなぁ。

 

しかし、途中も涙ボロボロになることはあったし、

1週間程度少し寝込んだりもしたし、

別に大丈夫じゃなかったけど、

結局仕事は辞めず変えず、続けている。

 

仕事としてはアシストに徹して、

全く攻めない8ヶ月であった。

 

プラスして、

去年の11月頃から

趣味のアクセサリー作りをきちんとするようになった。

 

それがよかったんだろうか。

猛烈に落ち込むことは減った気がする。

 

 

最近は陶芸も始めたし、

勝手に週3休みくらいで働いている。

仕事があるときはなるべく早く集中しておわして、

がっと休む。

徹夜仕事などできないことがあって、

それで引け目を感じるのが嫌だったから、

給料も減らしてもらって、さっぱりした。

給料分くらいは働いていると思う。まあトントン。

 

 

最近やっと気づいたことは、

休職から2年半、

私はまだ鬱が治ってないんだなということ。

 

周りからは一目瞭然だったんだろうけど、

やっとすんなり飲み込めた。

 

一生付き合っていくものだという言い方に、

心から納得する。

 

何ができるかはわからないけど、

何もできなくても、

きっと人生は続いていくんだろう。

 

今までは人目を気にしたり、

評価を気にしたり、

どこかで引け目があったけど、

そろそろ開き直る時期なのかもな。

もう常に戦えないことはわかったし、

そういうことを要求する人たちに

ご容赦願いますと言ってもいいのかもしれない。

 

私はもう気づいているんだ、きっと。

いい加減今のチームを去る時期かもしれない。

 

できないことを認めるのを嫌がる自分と、

進むのを怖がる自分と、

ジリジリとにらめっこしている。

 

 

秋になった。

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久々に外に出た。

もう半袖とサンダルでは寒くて、

そのままカーディガンを買いに行った。

 

 

8月忙しすぎてパンクし、

9月頭から3週間、

仕事を休んで見事に寝て過ごした。

 

1週間のうち、4日は家を出ず、

3日は夜にスーパーかカフェに出るだけ。

 

狂ったように海外ドラマを見続けたり、

昔のアニメを見続けたり、

マンガを読み続けたり、

天井を見上げ続けたり、

寝続けたりしていた。

思考はおきざりにして、

やり始めたら止まらなかった。

でも内容を理解しているのかはわからない。

ただ止まらない。

立ち上がれずに、見続けた。

 

 

お医者さんを違うところに移し始めたところで調整中のため、

なんだか客観的な状況がつかめない。

 

もう消えて無くなりたいという気持ちがいつも浮かんでしまって、何も手がつかない。

 

とにかく寝て寝て寝て、

画面を見続けて、見続けて、

消えて無くなりたいという気持ちを無視しようとした。

 

2週間目あたりに仕事のどうしようもないことを片付けて、

なんとか消えてなくなりたいという気持ちは減ったけど、

なにもしたくない。なにも。

 

なんだか虚しさ以外の全ての気持ちというものが消えてしまったみたいだった。

特に仕事に戻るイメージがなにもわかない。

なにも仕事に対する気持ちが冷めてしまったみたいだった。

 

 

そして、3週間がすぎようとしている今日、

やっと昼過ぎに出かけられた。

(日が暮れてからしか出かけてなかったから、久々だった。)

 

で、出たら出たで寒くて、

勢いでカーディガンを買って、

会計の時にお店の人にタグを切ってもらって、

そのまま着て帰ってきた。

 

もう季節は秋になっている。

 

カフェであったかいお茶が欲しくなる。

お茶であたたまったカップが手にあたたかくて心地よい。

 

寒い寒いと言いながら、

こんな日はと思って、

クリームシチューを作った。

白菜をメインに、キノコを多めに、

とろとろに煮こむ。

ホワイトソースは出来合いの缶詰を使ったから、らくちんにできた。

 

寝込んでいる間、

毎日カップラーメンばかりたべていたので、

白菜が安いなとか、

きのこいっぱい入れようとか、

ホワイトソースなめるのが至福とか、

そういうちょっとした生活に根ざした思考が久々でうれしかった。

 

しかし、一度消えた仕事に対する気持ちはどうして復活させたらいいのか、全くわからない。

 

前は、

「できないけど、やりたい。

結局これしかないのだ。

できないなりにやりたい。

迷惑をかけたぶん取り返さなきゃ。」

と思って仕事に戻ってたけど、

なんだか今回はそういう気持ちも湧かない。

 

「なにするんだっけ?」

「なにしてたんだっけ?」

「どんな気持ちだったっけ?」

と自分の胸の中を探しているけれど、

全然見つかってくれない。

 

私、どうして仕事してたんだろう。

 

 

 

 

 

海に来ている。

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海に来ている。

 

出張中に時間が空いたので

タクシーで海に送ってもらった。

 

私は山育ちなので、海はいつも新鮮だ。

「あ、海だ」

とバカみたいに毎度つぶやいてしまう。

 

風が本当に気持ちいい。

強くてもふわっと当たる。

 

ザパーンザパーンという音も

いつまで聞いていても飽きない。

 

潮の香りもいつまでも深呼吸したくなる気持ち良さ。

 

 

今日は平日なのでひともまばらで、

海の家のおじさんも、

のんびり新聞を読んでいた。

 

毎年夏、ここで海を見て暮らすのは、

なんて素敵なことなんだろう。

 

「いらっしゃい」

というときの自然な挨拶がなんだかとても嬉しかった。

 

フナムシくんたちも、

ざわざわと動き回っている。

私が少し動くと、すごい勢いで岩陰に隠れる。

でもまた少しすると顔を出す。

 

 

海に来ると、営みという言葉がよく思い浮かぶ

 

ザパーンザパーンと波は打ち寄せて、

フナムシくんたちはざわざわして、

おじさんは毎朝新聞を読む。

同じことを繰り返す。

 

だけど、海は引いたり満ちたりしてるし、

おじさんは秋になったら店じまいだけど、

このとき、この時期は、

毎日毎日朝起きて、

海に来て、

日がくれたらまた帰って行く。

訪れた人も、

また帰って行く。

 

そして、この海をみんな忘れない。

この海の時間を忘れない。

 

愛しい反復と寂しげな移り変わり。

過ぎて行くこと。

それが続いて行くこと。

そんなことが海に来るととても素敵だなと思える。

 

また来よう。

 

 

 

どれ、仕事行くかな。

 

 

 

悔いたり憤ったり祈ったり。

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またPMDD(PMS)が来た。

今回はだいぶ穏やかな方。

「来たな」という重い感覚はあるけれど、立ち上がれないほどではない。

 

PMDDのとき、落ち込みやすくなる。

くよくよしやすくなる。

しかし、その落ち込み方にもさまざまある。

私の認識しているパターンは3つ。

 

①ひたすら悔いるバージョン。

「自分があれができてない。

    これもできなかった。

    そんなこともできないなんて終わりだ。

    情けない。消えてしまいたい。」

と過去のできなかったことを思い出して、ひたすら自尊心をなくしていく。焦燥感もある。

一番重たくて、立ち上がりに時間がかかる。

 

 

②傷つきやすいバージョン。

そのつぎにあるのが、傷つきイライラパターン。

とにかくいちいち人の言うことに反応する。

ちょっとした言葉がぐさぐさ刺さる。

悪いように悪いように考える。

そしてパートナーや同期なんかの身近な人に意地悪を言う。つっかかる。

世間でよく言う「生理なんじゃない?」というイメージはこのパターンの時だと思う。

これは食ってかかれるだけあって、比較的パワーがあるときだ。

ぱたっとやむことが多いので立ち上がりは早いけど、周りに迷惑をかけてしまうことがあるから、タチが悪い。

 

 

 

③悲しみが溢れるバージョン。

今回はおそらくこれ。

とにかくずっと気持ちが悲しい。

なにをしてても、うっすらと悲しみのもやが心を覆っている。

このパターンのときは夜眠れなくなることが多い。

親しい人や親類などのことを思い浮かべて、いなくなってしまわないでほしいとひたすら祈る。

いつかいなくなってしまうことを思って涙が出てくる。

ひたすら悲しみに暮れる。さびしい。

そんなにすぐいなくなったりしないのに、

いつもはそんなに気にしてないのに、

ひどく悲しくなる。

これはうっすらと長く続く。

寝不足になるので体力的に厳しい。

 

 

 

それぞれしんどさが違うけれど、

一番重くて強度があるのが①のひたすら悔いるバージョンのとき。ほぼうつ状態になる。

 

やらかすのは②の傷つきやすいバージョンのとき。誰かを巻き込むからタチが悪い。

 

比較的マシなのが③なのだが、悲しみは悲しみで辛い。たいてい夢まで悲しいので、泣いて起きて次の日は1日腫れぼったい顔で生活しなきゃならない。ただ、誰かを巻き込んだり、死にたくなったりはしないのでやっぱりまだましだ。

 

ということで今夜はひたすらちびちび泣いている。

 

明日は腫れぼったい顔で会社に行く。

 

みんな、いなくならないでほしい。

元気でいてほしい。

 

 

 

女性におすすめのADHD本。宮尾益知著「女性のADHD」

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なんかこんなブログらしいタイトルというのも恥ずかしいのですが、ADHDで、かつ女性向けでおすすめのものがある。

 

宮尾益知著「女性のADHD

https://www.amazon.co.jp/dp/B01FDIFH2Y/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1

 

ずばりのタイトルで、いろいろADHDを読んだ中ではこれがいちばんしっくり来た本。

 

男性のADHDが基本に語られることが多いADHD本の中で頷けないことが多かったけど、この本は腑に落ちることが多かった。

 

・女性の発達障害当事者は診断されたあと落ち込みやすい。

一番しっくり来たところは、女性の方がADHDだとわかってほっとしたあとに、今出来ないことは一生出来ないということに気づいて自信をなくしてしまう女性か多いという話

この本を手にした時まさにその段階が来ていて、「もう抗ってもこの特性からは抜けられないのだ。」「成長することはできないのだ。」「こんなに気をつけてるのに、もっともっと気をつけないと常人レベルにはなれないのだ。」と落ち込んでたから、もう深く頷いた。(解決策が「周りのサポートを得てどうにか乗り切りましょう」だったのは笑ったけど。笑)

他の本では「もっと気をつけましょう」ということばかりが言及されていて、「がんばってるのにうまくいかない」ことによる落ち込みに気づいてもらえてない気がした。

 

おそらくそれは、他の本が男性の発達障害当事者の方を元に作られていたからだと思う。

というのも、男性の方が「今なんとかなってるし、いっか」と開き直りが早いらしいのだ。

たしかに私の周りのADHD傾向のある男性の知人はみんな「ま、いっか」タイプ。まわりは気にしてても本人は気にしない。鈍感力が強くて仕事で有利だったりする。(オリジナルの発想を周りを気にせずに通しやすいからだと思う。)

 

対してADHD傾向のある女性はどっちかっていうと空気読まなきゃ!と気を張って、逆にくよくよしてしまう人の方が多いように思える。

 

 

・女性の方がすでに「矯正」されてる人が多い

 

女性の方が発達障害だとわかったあとに落ち込みやすいのは、男性より比較的「女性らしさ」の枠にはめられがちで、「こうしなきゃ」という風に「矯正」されるものの「出来ない」という失敗体験が多く、ネガティヴになりやすいから。

(男性でもそういった矯正はあると思うが、女性の方がより頻度が高く・強い矯正だと思う。)

 

「女性らしさや、「〜すべき」といった価値観にあてはめられやすいから、その分出来ないことがある女性の発達障害当事者は失敗体験も多く、自己肯定感が下がっていく」というのは、すごくよくわかる話だ。

(私もそういうところかなりある)

 

 

・目指すは「おっちょこちょいだけどかわいいひと」

 

この本では、そういった女性らしさや「〜すべき」という価値観に振り回されずに、きちんとそれなりに努力して、でもやっぱりできないことがあるから、「だけどかわいらしいよね」と言われるくらいがちょうどいいんじゃないか、「目指すはおっちょこちょいだけどかわいいひと」じゃないかと言っている。

 

たしかに周りにもでこぼこはあるけど、ある意味「そういうひと」として受け止められて、面白がられてるひとはいっぱいいる。

 

概して思うのは、発達障害だからと言ってできないことにだけ目を向けてくよくよし続けるのは自分にも周りにもプラスにならないということだ。

なるべく自分の「できる・できない」をはっきりさせて、出来るようになる努力は無理ない範囲で努力し、さらにそれ以上に得意なことをどんどんやる方がよっぽど自信もつくし、周りの役に立つということ。

 

特に仕事をしていると、そう思う。

仕事相手には発達障害であるかどうかなんて、全然関係なくて、「なにができて、なにができないか」わかって、できることをきちんとしてもらえればそれでいい。

そういう意味では発達障害当事者も健常者も関係なんかなくて、それぞれの個性・得意なことを生かして利益につながればいい。

(日本の会社だとすべて標準的にできることを要求されるからなかなか難しいけど)

 

 

 

・薬の使い方

他にも面白いなと思ったのは、ADHDと診断された子どもを持つ女性教授の話。

もともとバンバン論文を書いてバリバリと仕事をして、あまり子どもにも構わずにいたひとだったが、ADHDだとわかりコンサータを服用したら、新しい論文がまったく書けなくなったという。

薬を服用したことによる衝動性や発想力の減少や、子どものことを気遣うことができるようになって研究に割く時間が減ったことが理由に挙げられるそう。

結局その女性教授は子育てがひと段落するまでは薬を服用してADHDの症状をおさえ、子育てが終わってからは服用をやめて、発想力や衝動性を武器に元どおりバリバリと仕事をしてるという。

 

私の仕事もクリエイティブと言われる仕事に入るので、衝動性や発想力などの特性が仕事の武器になることが多い。

そういう意味ではコンサータを服用するようになってからは過集中や過活動がなくなってかなり大人しくなった。行動力はなくなったと思うし、気遣いができるようになった分、遠慮することが増えた気がする。

 

このバランスはなかなか難しい。かといってコンサータを飲まなずに、過集中でない「ほどほど」の集中力を持続し続けるのも難しい。

一度やめてみて効果を見てみるのもいいかもしれない。

 

・母親の発達障害から女性特有の発達障害について考えることに

この本を書いた著者の宮尾先生はどんな方かというと、子どもの発達障害の外来を開いてらっしゃって、その過程で発達障害傾向のある母親に会うことが多かったそう。それで女性の発達障害当事者の悩みに気付きやすかったんだとか。

 

 

・最後に

途中でも書いたので繰り返しになるが、いつも発達障害について考えると思うのは、「ひとよりできないことがあって、それが変えることのできない特性であったとしても、くよくよし続けるのが自分にも周りにも一番良くない」ということ。

出来ないなら出来ないなりに、出来ることを探して、得意なことをどんどんやっていく。そして楽しくご機嫌でいる。

周りには、出来ることで貢献する。

それが自分がいきいき生活できる唯一の手段だと思う。

「自分は残念ながらこれは出来ませんが、その代わりこれが出来ます。だからこうしたいです。」それがはっきり言えれば、誰だろうがなんだっていいのだ。

発達障害に詳しい先輩が言っていた「発達障害を考えることは、社会と他者に対して自分のスタンスとしてどうしたいか考えること」というのは、まさに言い得てるなぁと思う。

 

 

と言いつつ、なかなかにくよくよするし、自分のことが一番よくわからないから、難しいんだけどな…笑。

がんばろ。

 

 

以上!

 

 

できないことの分類。

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自分の思考や行動が影響を受けるADHDPMDDだと、

その感情や思考が自分のくせなのか、病気の特性なのか、

わからなくなることがある。

 

下手にくよくよしないためにも

意識して区別をした方がいいと最近思う。

 

例えば仕事でまだできないこと。

 

私は、世間一般には

押しが弱い方では決してないけれど、

仕事となると、弱い方だ。

皆が押しの強い業界ので

比べると弱いということもあるけれど、

仕事となると変なプレッシャーを感じてしまう。

 

つい先日も、

踏ん張りが自分でも効いてないと思っていることで、

それは自分の気持ちの弱さなのか、

それとも相手への気遣いなのか、

とにかく押し切れないことがあった。

 

それを「そこで踏ん張らないとだめだ」と、

先輩に指摘されたんだけど、

それはそうだと思ったが、

できるとも思えなかった。

 

大抵そういう時は、

私の仕事でお邪魔している先で、

 

大げさに言うと「無理を言ってやってもらう」ことだ。

もうちょっと言葉を変えると、

「協力してもらう」ということでもあるんだけど、

どうにも、押し切らない。

 

 

 

多分、まだ背負えてないということなのかもしれない。

私の責任で、「やってもらいたいんです」

と思えてないのかも知れない。

違う人(上司とか)の現場だから、

私が決めていいのかと思ってしまうのかもしれない。

 

人のせいにしているのかも知れない。

 

 

これは決して、

ADHDだからとか、

PMDDの時期だからということでなく、

私のまだできないことなんだと思う。

病気のせいにして逃げるのは違う。

 

でも、自分の気持ちが弱くなってしまう病気だから、

全てを病気のせいにせずに、自分を責めるのも違う。

 

 

そのバランスをうまく取りたい。

だから、

いろんなできないことを、

どういう「できない」なのか分類したい。

 

これも主観で判断しかできないから、

また難しいんだけどさ。

 

私とは・・・?

 

あーあ、結局また堂々回りだわ。笑

 

 

 

以上!

 

 

 

命綱のような人々。

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ADHD(注意欠陥多動性障害)にしろ、

PMDD(月経前不快気分障害)にしろ、

出来ないことがあるときがある。

 

PMDDだと生理前の

「起き上がれない…(=会社に行けない)」

「こんな人間だめだ…(=うつうつ)」

とか、

ADHDだと

スケジュールや仕事量の調整が

1人では不安で、

優先順位がつけにくいので

効率を上げるのも出来にくい。

 

そんなときの命綱になってくれてる人が

私には2人いる。

 

1人は、彼氏さん。

相棒と言ってもいい。

まだ半年強の付き合いだが、

彼と付き合ってから、

周りの人に「なんか落ち着いたね」と

言われることが急激に増えた。

 

彼は精神科医で、研究者だ。

メインは研究者の方かな。

とにかく精神が安定している。

恒常的に冷静な考え方ができる。

それは彼の訓練の賜物なんだが、

彼の客観的なアドバイスは、

どんなときでもすんなりと私に入ってくる。

なによりわかるように言ってくれるのが

ありがたい。

 

そして、

恋人の彼は

私に適度に甘く、味方でいてくれる。

間違ったことや適さないことは指摘してくれる。

当たり前だけど、それがすごいありがたい。

私に対しての飴と鞭が神がかり的に上手である。

 

私にしかいいことないじゃんとも思うのだが、

彼は慎重派なので、

予定調和にならない私の特徴を

面白がってる様子。

真面目で頑張り屋な彼を楽しませる人間でいたい。

 

私の友人で、恋人で、恩人で、パートナーだ。

 

 

 

 

もう1人は、

会社の同期のすこやか星人(仮名)だ。

このひとは、私の同期入社で、

たまたま同じチームで仕事をしている。

性格を一言で言うと、

もうなんてったって人たらしの、

憎めないひとである。 

仕事もかなりできる。

 

そして、

ひとの気持ちが

本当によくわかるひとである。

しかもわかるのに、

それをよく捉える。

決して悪く捉えたりしない。

「だからこうなっちゃったんだよな、

   大変だよな」

と労ってくれる。

 

男性なのに、

いや男性だから、

わかったふりをせずに、

PMDDのことも

客観的な事実を

その通りきちんと受け取ってくれる。

わかったふりはしない。

 

逆に女性の方が、

そういう意味ではわかる分主観が入って、

認識するのに

いろんなバイアスがかかるのかもしれない。

 

スケジュールやタスクの調整なんかも、

こまめに彼に相談する。

現場経験が私より豊富なので、

柔軟で的確なアドバイスをくれる。

 

そして、

会社に行けなくなるような事態の時は、

兎にも角にも第一報はすこやか星人だ。

彼には負担をかけてしまうが、

とにかく彼に連絡する。

「このまま行くとまずそうだ。」

とか

「怖い」

とか

とにかくなんでも言うようにしてる。

その方が

彼の仕事を結果的に増やさない

ということもわかった。

 

 

 

ありがたいひとたちである。

言葉通りの命綱の、2人。

 

逆に私は彼らになにを差出せるだろうかと

考える。

 

役に立てることがあれば、

できるようになりたい。

しかし私のできることはすごく少ない。

まずは、

私の存在が

なにか彼らを楽しませる存在であってほしい。

だから笑える時は、

病んでたのが嘘のように笑ってやろうと思う。

調子のいいやつで構わない。

嘘のように見えても構わない。

調子のいいときは

彼らの日常に

楽しみを増やせるような人間でいたいなぁ。

 

 

ということで仕事しよ。

 

以上!